島原半島  長崎県島原市・雲仙市・南島原市

島原という地名からは、国内最大級の内乱である「島原の乱」を思い出します。また同時に「火砕流」という恐ろしい火山現象の全貌を世界に知らしめた普賢岳のことも忘れるわけにはいきません。噴火からすでに約30年の月日が流れています。その普賢岳の、いや「平成新山」のいまの風景を取材して来ました。

ニコンZ7Ⅱ Z24-70mmf2.8S f2.8 20秒 ISO800 自然光AWB

垂木台地から見た天の川と月の出の赤い月光を浴びる平成新山の溶岩ドーム。

平成新山

雲仙普賢岳の溶岩ドームに「平成新山」という名称がついていることを、今回取材に行くまで知りませんでした。取材に行こうと思った動機は、北アルプスの焼岳についての記事を書いている際に、その成因の謎を解くヒントとなったのが、平成の雲仙普賢岳の火山活動だったことを知ったからです。成長する溶岩ドームと、それが落下し発生する火砕流など、これまで映像として記録になかった火山活動の全貌が多くの研究者の前で起こったことで、焼岳をはじめ、粘性が高い溶岩からなる火山の成り立ちが一気に解明されたのです。実際に目の当たりにした平成新山と焼岳はコピーかと思えるほどそっくりで、多くの人命を奪った災害映像でもありますが、あの期間に撮られた幾多の写真や映像をそっくり上高地の風景に重ねることで、焼岳の成り立ちが見えてくるような気がしました。

写真左が平成新山、右が北アルプス上高地にそびえる焼岳です。山の成立ちが似ているので姿形も瓜二つです。焼岳山頂にある溶岩ドームができたのは今から約3000年前のことで、その際の火砕流によってできたのが山腹のなだらかな斜面です。普賢岳の一連の報道映像を重ねると当時の焼岳の活動が手に取るようにわかります。

普賢岳が噴火を起こしたのは1990年(平成2年)11月のことでした。次項でお話をする「島原大変」以来となる198年ぶりの噴火でした。噴火というと火口から真っ黒の噴煙が勢いよく吹き上がっていたり、1986年に発生した伊豆大島の三原山のように真っ赤な溶岩が流れたりと、動的な激しいイメージが思い浮かびますが、雲仙普賢岳はそれらとはまったく違った様相でした。溶岩ドームと呼ばれる火山岩の塊が静かに大きくなるだけで、どちらかというと地味で大人しい印象でした。それは普賢岳の溶岩が高い粘性を持っているからで、火口まで到達してもサラサラと流れ出すことはなく、空気に冷やされて表面から固まってしまいます。隙間から少しずつ押し出された結果でき上がったのがあの巨大な溶岩ドームだったのです。

その溶岩ドームの恐ろしさを思い知らされたのが、1991年6月3日に発生した大火砕流でした。素人目には、溶岩ドームは巨大な岩の塊にしか見えませんが、その内側では溶岩が地下から供給され続けており、一皮むけばその中身は灼熱の溶岩そのものだったのです。ドーム崩落と聞くと単なる岩雪崩のように思いますが、大量の溶岩が同時に落下したことで、それとはまったく性格の異なる火砕流となったのです。崩れた溶岩は山の斜面を転がる間に地面や岩などに激しくぶつかり、はぜて高温の火山ガスと大量の火山灰を発生させました。それらが数秒の間に連鎖的に起こり、大量の火山灰と400℃を越える熱風の塊が高速で移動する火砕流となったのです。発生当時、報道関係者とそれをサポートしていた地元の方々がいたのは、「定点」と呼ばれる溶岩ドームから約3.7km離れた高台でした。火砕流はそれまでに何度か発生しており、研究者からはその危険が再三伝えられていましたが、報道合戦の心理も働き、真の危険を理解するには至らなかったのでしょう。岩雪崩や土石流からは安全と思われた高台を、高温で地表との摩擦もほぼないに等しい熱風(火砕サージ)は、谷を駆け上がり「定点」を飲み込んでしまったのです。この時の火砕流により44名の方が亡くなっています。

がまだすドームに展示された、火砕流により被災したカメラマンの三脚と望遠レンズ。自分と同じハスキー社の三脚の変貌ぶりが痛々しいです。パン棒のプラスチックが溶けて三脚の脚にこびりついています。

その後も火砕流は頻発し、1995年の活動終息宣言までの間に、地震計によるカウントでは約9000回の発生が確認されています。またその間に地上に噴出した溶岩の総量は約2億㎥と言われており、東京ドームの容積に換算すると約161個分に相当します。結果として普賢岳の一部であった溶岩ドームは成長を続け、ついには雲仙火山群の主峰となったのです。

「定点」付近は今も許可なしでは立ち入ることができませんが、その下流側にある吉祥白天橋から見上げても、平成新山の溶岩ドームは近く感じられ、聳え立つ偉容さに圧倒されます。でもそれは私たちが、すでに火砕流の怖さを嫌というほど知らしめられたからだと思います。

水無川 に架かる吉祥白天橋から見上げた平成新山。砂防ダムの上に見える丘状の尾根から噴火前の谷の姿を想像すると、いかに大量の火山噴出物によってそれが埋められたかが分かります。それを堰き止めるためにいくつもの砂防ダムが続きます。

仁田峠の第二駐車場から見た平成新山の山頂部。溶岩ドームにも少しずつ緑が広がり、山らしい一般的な姿になりつつあります。

垂木台地から見た朝日を浴びる溶岩ドームです。粘性が高かったため溶岩は流れることなく、内側から押し出されるようにボソボソと盛り上がってできました。不安定なドームはいまも崩落があるようです。

仁田峠第二展望台から見た平成新山の溶岩ドーム。白い点線は噴火前の稜線の位置。最終的には溶岩ドームの標高は1483mとなり、普賢岳の標高1359mを抜き去って島原半島の最高峰となりました。

雲仙ロープウェイの駅舎前展望台から見た平成新山と水無川下流域。あの山頂から発生した火砕流は谷を埋め、雨と共に土石流となって下流域を襲いました。

平成3年9月15日18時54分に発生した大火砕流の火砕サージ(火砕流先端部の熱風)により全焼した大野木場小学校の旧校舎。現在は災害遺構として保管されています。となりの建物は砂防みらい館で、パネル展示などが見学できます。

平成新山ネイチャーセンター。平成新山を間近に見上げる垂木台地に建つ施設です。「がまだすドーム」が災害記録寄りなのに対してこちらは自然科学寄りの展示内容です。最初に訪問し島原半島や平成新山の概要を掴むとよいでしょう。見学無料。

平成新山ネイチャーセンターの展示室内部。岩石標本から記録映像まで展示しています。

水無川の河口部付近に建てられた雲仙岳災害記念館「がまだすドーム」。がまだすとは地元の言葉で、「頑張る」「精を出す」という意味。見学は有料。

がまだすドームの有料エリアの展示。映像を使った体験型のアトラクションなどが用意されています。

島原大変 肥後迷惑

「島原大変 肥後迷惑」という言葉をご存じでしょうか? 島原の乱にまつわるいざこざか何かと思われるかもしれませんが、これはれっきとした災害の名称です。今でいう「阪神・淡路大震災」「東日本大震災」と同じです。平成新山の約4km東側、垂木台地を鞍部にして隣接するのが眉山(まゆやま)ですが、1792年5月21日、この東斜面が山頂から大崩壊を起こして有明海に流れ込みました。さらにそれによって発生した津波により対岸の熊本(肥後国)に多大な被害が出たのです。この一連の災害を「島原大変 肥後迷惑」と呼んでいます。

眉山の崩壊により流れ込んだ土砂により有明海には高さ10mの津波が発生、対岸の熊本に甚大な被害が出ました。具体的には島原側で約1万人、肥後側で約5千人、計1万5千人という、日本国内の火山災害としては最悪の被害者数を出したのです。地図は国土地理院提供のWEB地形図に加筆。

山体崩落の直前まで普賢岳は激しく噴火しており(平成の噴火のひとつ前の噴火にあたります)、それに伴う直下型地震も多数発生していました。また崩落前には眉山の地下付近で震度6の地震があったとの記録もあります。いずれにしても普賢岳の噴火が契機となり、それに伴う群発地震が複合的に重なったことが大崩落の原因に間違いありません。実は平成の普賢岳噴火の際も、火砕流に対する不安と並んで、地元の人々の間ではこの眉山の再崩落がかなり不安視されていたのです。

火山の内部は流れた溶岩流と不安定な火山灰が交互に積み重なってできています。またマグマの熱や地震の影響を受け続けて、どっしりして見えていても実際はとても脆弱です。火山が崩れる話は古来からよくあることで、江戸時代以降でも、1858年に発生した立山連峰の鳶山崩れ、1888年の磐梯山の崩壊、1984年の長野県西部地震による御嶽山の崩壊、2008年の宮城内陸地震による栗駒山の崩壊などがあります。火山の危険は噴火だけではなく、山体崩壊もあることをもっと認識すべきと警鐘を鳴らす研究者もいます。富士山は、東海・東南海地震に連動する形での噴火が懸念されていますが、標高が高い分、もし山体崩壊を起こした場合の被害は甚大で、それに対する監視と準備も怠れません。

島原の市街地から眉山の崩壊地を望む。正面の馬蹄形に見るのが崩壊斜面。大量の土砂が手前に押し寄せて来ました。

出航するフェリーから見た眉山の崩壊斜面です。海から眺めることで、流れ出た地塊・岩塊による凹凸がはっきりと確認できます。このような山体崩壊による土砂の凸状の地形を「流れ山」と呼びます。

フェリーから撮影した島原外港に浮かぶ九十九島(つくもじま)。小さな島が点在しますが、これも海に流れ込んだ地塊・岩塊による「流れ山」です。

画像は、眉山から有明海に浮かぶ九十九島あたりに西からの光を当てて立体化したものです。東斜面の崩壊の様子と扇状に流れ出た土砂、海上に点在する流れ山の小島が手に取るようにわかります。 国土地理院のWedサービスを利用。

真横から見た眉山のシルエット。明らかに左側の東斜面が欠けるようになくなっているのがわかります。

島原の市街地に湧く白土湖(しらちこ)。眉山崩壊の際にできた陥没地に湧水が出てきたことで生まれた自然の陥没湖です。今も推定で日に約4万トンの水が湧き出ていますが、周辺の生活排水が流れ込んでいるためか、水の美しさはさほど感じませんでした。

雲仙温泉

「雲仙」とは、なんとも響きの心地よい地名だなあと思います。字を見ているだけで旅に対する欲をかき立てられます。地名の言われについては、もともと温泉を「うんぜん」と読んでいた時代があり、そこから「雲仙」の字があてられたようです。

雲仙温泉は、間違いなく島原半島の観光のハイライトです。その開湯の歴史は古く、701年、飛鳥から奈良時代にかけて活動した仏教僧・行基により開かれたという伝承があります。海岸線の市街地からは、どのルートから上がっても幾重ものヘアピンカーブを上がることとなり、深くなる山の気配に不安になりはじめた頃に、忽然と大型の温泉ホテルが立ち並ぶ雲仙の温泉街に到着します。明治以降は、標高の高さから外国人を中心に「避暑地」として人気を集めました。

雲仙温泉での最大の観光イベントは入浴ですが、「雲仙地獄」を巡る散策もおすすめです。硫黄臭や噴気の音、地熱など五感で大地を感じてみましょう。開湯が古いので、その当時は地獄だった場所が今は活動が停止したという、という場所があります。原生沼や旧八幡地獄がそれで、時間を経るに従って活動域が東に移動しているようです。

雲仙ロープウェイの妙見駅展望台より俯瞰した雲仙温泉の町並みとおしどりの池(人造湖)。

雲仙地獄のひとつ清七地獄。

旧八方地獄。かつては雲仙地獄のひとつだったようですが、今では噴気もなく植生がどんどんと侵入しています。

大型ホテルの谷間に残るひなびた佇まいの町並み。

温泉組合員のための共同浴場。一般も入れます。入浴料はなんと100円。設備は何もないけど、風情は最高でした。

雲仙ロープウェイ。山頂駅にある妙見岳展望台からは平成新山や妙見カルデラが眺められます。初夏にはミヤマキリシマのツツジ群落が見事のようです。

展望台から見る妙見カルデラのカルデラ壁。中央の山は国見岳。普賢岳はこの右手にありますが霧ではっきりとは見えず。

雲仙地溝帯

島原半島はユネスコの「世界ジオパーク」に登録されていますが、それは世界ではじめて火砕流の全貌が記録・調査されたことが評価されてのことだろうと想像します。でも個人的にはそれよりこの「雲仙地溝帯」にそそられます。ただ地面の中のことなので、写真に写らないのが難点です。写真家としてはまったくお手上げのテーマです。知り合いの火山学者の先生は、地学の本当のおもしろさは地表に現れていることより、地下にあると教えて下さいました。

地溝帯とはその字のごとく、地中深くにまで達する溝状の陥没地形のことです。日本列島では、西日本と東日本を分けるとされる「フォッサマグナ(静岡糸魚川構造線)」が有名です。島原半島の中央部には東西方向に延びる「雲仙地溝帯」と呼ばれる溝状の巨大な窪地があります。ただしこれは地質的に見た場合で、我々の目にはその溝を埋めるように雲仙火山群が乗っているので、陥没地形を認識することはありません。むしろ半島一番の高まりに見えてしまいます。

溝状の窪地ができる原因は、島原半島の北と南で地殻を引っ張る力の大きさが異なるからです。ちょうど柔らかいうどん生地を引っ張ると真ん中が延びで薄くなりますが、そのような状態にあると思って下さい。硬い岩盤でできている地殻が引っ張られると、その中央当たりにたくさんのひび割れ(断層)が生じ、それぞれが支えられなくなると地下にストンっと落ちていきます。これが地溝帯ができるメカニズムです。本来ならそこに海水が侵入し海になるのですが、島原半島の場合は、その溝の底の割れ目を伝ってマグマが上昇し、火山活動がはじまってしまったのです。これが普賢岳をはじめとする雲仙火山群です。元々あった大地の土台はどんどん沈降しますが、湧き出したマグマや溶岩が地溝帯を埋めるだけではなく、さらにその上に聳え立つ火山を作ってしまったのです。いつか雲仙火山へのマグマの供給が止まるか、火山活動より地溝の沈降速度が大きくなると、島原半島は真ん中から二つに割れてしまうことになります。

しかし地溝帯は島原半島だけではなく、実は九州全体も同じように南北からの力によって引っ張られており、中央部に大きな地溝帯が存在しています。これを「別府島原地溝帯」と呼んでより、その西端にあたるのが「雲仙地溝帯」なのです。別府島原地溝帯でも阿蘇山や九重山などが噴火活動をおこなったことで溝を埋めたために、雲仙と同じく明確な地溝の地形を示してはいません。でもやはりこのまま南北の引っ張りが継続されるならいずれ九州はふたつに割れるとみられています。日本列島全体を見渡すと太平洋プレートとフィリピン海プレートに押されているのですが、九州から琉球列島の北側にある沖縄トラフにかけては、その反対に大地が引き裂かれる動きが見られます。その理由についてはここでは割愛しますが、つくづく日本列島というのは、多種多様な大地の動きが集中するエリアだということを思い知らされます。

島原半島を南北で切った地質断面図です。緑系の色で塗られた部分が、地溝ができはじめる前(約30万年前)までに堆積した地質で、赤系が沈降開始後にその上に堆積した火山による岩石です。地溝ができるモデルとしては、①として、南北に引っ張る力がかかりはじめ、②大地にたくさんの割れ目(断層)が入り、支えがなくなったパーツから地中に落下し、地溝ができます。最後に③として、脆弱となった地溝の底からマグマが上昇し火山ができ、結果的に溝を埋めてしまいました。南北の引っ張りは今も続き、沈降は進んでいます。この先島原半島がどうなるかは誰にもわかりません。図は長崎県設置の観光案内プレートを改変しました。

雲仙地溝帯の北の端は「千々石断層(ちちわだんそう)」、南は深江・布津断層とされています。その間に無数の正断層が走っています。また島原半島の西にある橘湾はかつてのカルデラ噴火のあとであることがわかっています。カルデラの地下にはいまもマグマだまりがあり、平成新山を作ったあの噴火もここからマグマが供給されたことが、地震波の分析などからわかっています。図は総産研提供の活断層図を加工しました。

千々石少年自然の家の前から見た千々石断層。画面中央を鋭利に横断する植生(赤い点線を参照)が断層崖です。雲仙地溝帯の北端になります。写真からは分かりずらいですが、断層の手前に見る水田より、その向こうにかすかに見える田園地帯は一段高くなっています。

白線が千々石断層で、画面左の斜面が断層崖です。海岸線とそれに続く水田地帯は、私が立つ位置からずり落ちて低くなりました。またここからの眺めで特筆すべき点は、背後の山の稜線が断層を境に段になっていることです。

仁田峠第二展望台から俯瞰した旧深江町方面です。雲仙地溝帯の南端と言われる深江断層の一部と布津断層が見えています。画面右に行くほど標高は高くなっており、陥没を実感することができます。

九州を南北に分断する別府島原地溝帯の概念図です。雲仙地溝帯がその一部であることがわかります。また島原半島から先は沖縄トラフへと続くと言われています。大地が裂けたことで、火山活動が活発になったのかはわかりませんが、いずれにしても今現在は凹んだ地形は火山によって隠されています。はるか遠い未来、日本海誕生の時のように大地が激しく裂けるのでしょうか?

島原半島のジオサイト巡り

ジオサイトとは、ジオパークの視点でピックアップされた見所です。歴史や産業的なことも含まれますが、その主なものは地形・地質にまつわるポイントです。正直、普賢岳と平成新山、雲仙地溝帯に比べると「付け足し」感は否めませんが、島原半島を成り立ちから考えるのであれば見ておく価値はあると思います。半島巡りのポイントとして利用するのもよいでしょう。実際に車で海岸線を走るだけでもとても気持ちいいです。

●龍石海岸の露頭 長崎県南島原市

海水に浸かっている土台となる岩石は、約50万年より前に浅海で堆積した砂岩泥岩です。その上に見える黄土色の岩石(崖の最下層)は、初期の雲仙火山が噴火した際に溢れ出た火砕流による凝灰岩です。層の厚さ、堆積の様相から大型で活発な火山の出現が分かるそうです。

龍石海岸の露頭(地層が見える崖)です。崖の一番下の黄土色が、雲仙火山ができた初期の火砕流跡です。その上に土石流跡と思われる礫岩層、さらにその上に火山灰層と続きます。

火山灰層の地層をクローズアップで撮影しました。海底の斜面に堆積した火山灰が自重で崩れた跡(スランプ構造)が見られます。

●早崎海岸の玄武岩露頭 長崎県南島原市

ここはかつての「島原島」が生れた場所と言われています。約430万年前、海底に玄武岩質の溶岩があふれ出たことがはじまりでした。アクセスは早崎港か、その脇にあるアコウ群落を目指すとよいでしょう。アコウの生命感あふれる姿も見応えがあります。

早崎海岸の玄武岩。柱状節理の上面にあたる亀甲模様がとても美しいです。

玄武岩層の断面です。海底に溢れ出た溶岩が海水に触れてはぜ、破砕されてできた砂礫が最下層(海水につかっている層)です。その上は溶岩のしぶきが堆積した赤い礫層(海面から上の層)。そして最後にゆっくりと流れ出た玄武岩溶岩がそのまま固まった柱状節理からなる最上層と、その断面から時々の活動の様子と変遷が推測できます。

●両子岩 長崎県南島原市

地質的に云々というより、モニュメントとして楽しめはよいと思います。海岸を走る道路からは少し距離があり、望遠レンズを使っています。干潮時には近くまで寄れるそうです。

大正時代まではそばにもうひとつ岩塔があり、両子岩と呼ばれていたそうです。

旅のスケッチ

熊本の長洲港を結ぶ多比良港のフェリーターミナル。島原半島へは長崎市を起点にするか、熊本を起点にするかでアクセスが変わります。熊本側からフェリーを利用すると、印象としてはほとんど島めぐりの感覚になります。

島原半島ができたことで外海と切り離され、独自の道を歩むことになった有明海。内海らしく波も穏やかで青空を映すととてもすがすがしいです

展望台に限らず車窓からは優しい絶景が絶え間なく展開します。

朝陽で真っ赤に染まる平成新山を撮り終え、後ろを見ると眩しい有明海の朝が広がっていました。

溶岩由来の石垣に根を張り巡らせるアコウの気根。大きな木陰で夏の日差しを避け、涼を得ながらのんびりと撮影しました。

南串山に広がるジャガイモの棚畑。何気に現われた絶景に言葉もありませんでした。職業柄、日本各地の絶景は積極的にリサーチしますが、まったくノーマークでした。島原半島の肥沃な土壌を作ったのは、数々の火山です。それを使い、今ではジャガイモの生産量は北海道に次ぐ全国第二位を誇ります。※下の地図の展望台よりその下に架かる「大谷大橋」の上からの方が眺めとしては素晴らしいです。

島原の郷土料理のひとつ「ろくべえ」です。サツマイモの粉から作った黒いうどんです。

平成新山と天の川。県道58号線・礫石原町付近の路肩にて撮影。地図を見ながら南に平成新山が見える地点を探して撮影しました。暑かったけど、快晴に恵まれ星空が印象的な3日間でした。

取材日:2021年8月27日~29日

ジオスケープ・ジャパン 地形写真家と巡る絶景ガイド

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