槍沢の氷河を想いながら 長野県松本市

名峰「槍ケ岳」、その天を突くような山容は、山の四方に発達した氷河の源頭部が接することできました。砂場で作った山を四方から手ですくっていくと、不安定な部分が崩れ、尖った円錐形の砂が残るのと同じイメージです。槍沢は、槍ケ岳を削った氷河が流れていた沢のひとつで、氷河の痕跡をよく残しています。現在は槍ケ岳に登るメインルートにもなっており、登山をしながらその痕跡を辿ることで、氷河期の槍沢にタイムスリップすることができるのです。

蝶ヶ岳から見た槍沢の全景。U字谷の形状や谷に残っているモレーンなども確認できる。

ババ平モレーンとU字谷

まずは「U字谷」と「モレーン」のふたつのキーワードを覚えます。ともに氷河が流れていた証拠となる言葉で、実際に現地でそれを確認することで氷河期の空想が可能になります。

「U字谷」は字のごとく、その断面がアルファベットの「U」の形をしている谷のことで、個体である氷が、谷底全体を削りながら流れることでその形状となります。対する日本の一般的な渓谷では、谷底の浸食は水が流れる1点に集中するので、谷の断面は「V」字になります。谷の断面がU字かV字かで、かつて氷河が流れていたかが分かるのです。

「モレーン」とは、氷河の末端部にできる岩や石の堆積のことです。氷河は氷だけが流れている訳ではなく、氷河が谷を削った際にできた石や砂、山から崩落してきた巨大な岩などを巻き込みながらベルトコンベヤーのごとく流れ下ります。氷河の末端では、氷は解けて水になりますが、岩や石はその場にドンドンと堆積して堰堤のような地形が出来上がります。氷河の末端部は、舌先のような形をしているので、出来上がったモレーンはそれに沿うような三日月状となることが多く、浸食がなく保存状態がよいと地図の等高線からもその地形が読み取れます。

槍沢には、状態のよいモレーンが何か所も残っており、当時の気候の変化によって氷河が後退していった様子が分かります。登山道で一番最初に現れるのが、現在槍沢のキャンプ場にもなっている「ババ平」に横たわる「ババ平モレーン」です。樹木に覆われているので、モレーンとはわかりにくいのですが、谷全体を見渡すような大きな視点で見ると、確かにそこが「堰堤」状になっていることに気が付きます。

このあたりまで氷河が流れ下っていたのは、「横尾氷期」と呼ばれる約6万年前のことで、槍・穂高の山々を鋭利な姿に仕上げたのはこの時期に谷の下流まで流れ下っていた氷河でした。

モレーンに差し掛かると登山道も急坂となり、姿は見えませんが滝の音も聞こえます。それを登り切ると一気に視界が開け、横尾尾根と赤沢山の断崖が左右に聳え、U字谷の底にいることを実感します。

上高地から約11kmの場所に建つのが横尾山荘。そこで穂高と槍への登山道が分かれる。横尾から槍ケ岳山頂へは標高差1500m、距離11kmの登りが待つ。

槍ケ岳登山の前線基地「槍沢ロッジ」。大抵の登山者はここで1泊をして、翌日山頂を目指す。

ババ平モレーン。写真の光が当たっている部分がモレーン。樹木が生い茂って分かりにくいが、谷をせき止める堰堤のような格好をしている。

モレーンにさし掛かると登山道も急坂となる。

ババ平モレーンの上部は、たまった土砂で平らな地形になっている。今はその地形を生かしてキャンプ場として利用されている。

大曲付近から俯瞰するババ平。光の加減でU字形をしている谷の形がよくわかる。

大曲からグリーンバンドモレーンへ

ババ平から上流を見ると、谷の正面にノコギリ状の東鎌尾根が行く手をさえぎり、そこで槍沢は大きく左にカーブします。「大曲」と呼ばれてる地点で、槍沢の本格的な登りはここから始まります。大曲からは、丘状の槍沢モレーン(以後のモレーンの名称は、資料によってもまちまちで不確か)を前景に、中岳や主稜線までが見通せます。沢の右をジグザグに登って行くと、右手側よりハイマツに覆われた通称「グリーンバンド」の全容が見えてきます。槍沢の中でも一番保存状態のよいモレーンで、谷底のたわんだ曲面から立ち上がる堰堤の形がよくわかります。槍ヶ岳の勇姿は、モレーンの向こうでまだここからは見えません。

大曲から見上げた槍沢。写真中央の丘状の地形が「槍沢モレーン」。両側が沢で削られてるので堰堤状ではなくなっている。

中腹から赤沢山と大曲を俯瞰する。ここからも谷がU字形をしているのがわかる。

大曲から一段登ると、ハイマツで覆われた「グリーンバンド」モレーンの全容が見え始める。

天狗原の入口付近から俯瞰気味に見たグリーンバンドモレーン。三日月状の形がよく分かる。さらに上部、影で分かりにくいが槍ヶ岳の直下には殺生モレーンがある。

天狗原の氷河遺跡

天狗原は、別名「氷河公園」と呼ばれています。ガイドブックなどでは、「モレーンが点在し、氷河のなごりでもある天狗池がある」と紹介してありますが、それだけで「氷河公園」と呼ばれているわけではありません。

グリーンバンドの直下で、登山道は槍ヶ岳方面と天狗原を経由して南岳に至る道に分かれます。天狗原へは、中岳稜線から崩落した岩屑が、膨大に堆積してできた「崖錐(がいすい)」の上を横断して行きます。振り返るとグリーンバンドの向こうに槍ヶ岳が見え、9月末頃の紅葉の時期には、あたりのナナカマドを前景にした槍ケ岳を撮ることができる一番の撮影ポイントになります。天狗原まで行く時間がない人も、分岐から10分のこの場所には立ち寄るべきです。

崖錐エリアから「つばめ岩」の基部を越えて数分も歩くと、眼下に青空を映す天狗池が現れます。槍ヶ岳が水面に映る「逆さ槍」が人気ですが、雪渓が溶けて池が現れるのが9月の初旬以降で、そこに槍ヶ岳が映るのは快晴無風の時のみと、絶景を拝むためのハードルは結構高いのです。私も大昔に一度撮ったきりで、今回も崖垂を横断中に槍ヶ岳が霧に消えてしまいました。

天狗池から南岳方面の登山道を少し登ってみましょう。あたりは、表面に苔や地衣類が付着した古びた巨岩がゴロゴロと横たわり、時間が止まったような静けさを感じます。天狗原入口あたりの崖錐地帯の岩とは、大きさだけではなく、どこか漂う風格が異なります。これらは、かつての氷河により主稜線あたりから流されて来た岩で、氷河の消失とともにこの場に置き去りになった岩海なのです。通常は、氷河期の終わりと共に、その地形の一部は、周囲の岩壁からの岩屑の下に消えてしまうものですが、天狗原には、ここまで岩が転がるような背の高い岩壁がなく、全域で氷河の痕跡がキレイに残ったのです。

グリーンバンド直下にある天狗原への分岐の道標。

天狗原入口のガラ場から見た紅葉のナナカマドと槍ケ岳。秋の槍沢のハイライトポイント。

青空を映す天狗池。山頂を目指さなくても、ここで1日のんびり過ごし、槍沢ロッジに連泊するのもよい。涸沢のような喧騒とは無縁である。

天狗池のまわりにも背丈を越えるような巨岩がひしめく。

巨岩とナナカマドの紅葉。無機物の岩と有機物の紅葉の対比に、北アルプスの高山帯の厳しさを感じる。

ナナカマドの紅葉を主役にして、背後に岩海を。

中岳主稜線からの崖錐。天狗原に転がる岩とは、大きさや雰囲気が異なる。今の気候の寒気には、これ以上大きな岩を割る力はなく、せいぜいこれくらいの大きさの岩屑しかできない。

天狗原に横たわる巨岩は、南岳周辺で見られる角礫凝灰岩である。氷河によりここまで運ばれた。

天狗原 氷河が削った岩

天狗池の横に立って主稜線の方を向くと、目の前の岩尾根の末端が研磨されて丸くなっているのが分かります。鋭角的な線で構成された印象が強いこの山域には、似合わない形状です。さらにその尾根を目でたどると、所々に同じような岩が見られます。これは、もともとは角張った岩が、氷河によって削られて丸くなったもので、羊背岩と呼ばれています。丸くなったその表面には、氷に含まれていた岩が引っ掻いた傷跡も残っています。U字谷やモレーンは、知識をもとに空想することで氷河の存在を感じますが、羊背岩や氷河の傷跡は直接的にその存在を感じさせてくれる圧倒的な説得力があります。

槍沢の氷河巡りは、その源頭部に聳える槍ヶ岳で完結するべきだと思いますが、今回はここまです。

中岳から派生する岩尾根に、丸く研磨されたような岩が見える。

上の写真の露頭を別角度で。間近で見たいが、高山植物を踏むことになるので断念する。残雪期に出直して、雪を利用して近付きたい。

天狗池のすぐ上にある羊背岩。

登山道の脇にあるが、登山者は、気にも止めずに通り過ぎる。

羊背岩の表面に深く刻まれた氷河の傷跡。ギシギシと岩と岩が擦れる音が聞こえて来そう。※白い擦れたあとではなく、横に走る深い傷がそう。

取材日 2017年9月29日

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