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島原という地名からは、国内最大級の内乱である「島原の乱」を思い出します。また同時に「火砕流」という恐ろしい火山現象の全貌を世界に知らしめた普賢岳のことも忘れるわけにはいきません。噴火からすでに約30年の月日が流れています。その普賢岳の、いや「平成新山」のいまの風景を取材して来ました。
垂木台地から見た天の川と月の出の赤い月光を浴びる平成新山の溶岩ドーム。
平成新山
雲仙普賢岳の溶岩ドームに「平成新山」という名称がついていることを、今回取材に行くまで知りませんでした。取材に行こうと思った動機は、北アルプスの焼岳についての記事を書いている際に、その成因の謎を解くヒントとなったのが、平成の雲仙普賢岳の火山活動だったことを知ったからです。成長する溶岩ドームと、それが落下し発生する火砕流など、これまで映像として記録になかった火山活動の全貌が多くの研究者の前で起こったことで、焼岳をはじめ、粘性が高い溶岩からなる火山の成り立ちが一気に解明されたのです。実際に目の当たりにした平成新山と焼岳はコピーかと思えるほどそっくりで、多くの人命を奪った災害映像でもありますが、あの期間に撮られた幾多の写真や映像をそっくり上高地の風景に重ねることで、焼岳の成り立ちが見えてくるような気がしました。
普賢岳が噴火を起こしたのは1990年(平成2年)11月のことでした。次項でお話をする「島原大変」以来となる198年ぶりの噴火でした。噴火というと火口から真っ黒の噴煙が勢いよく吹き上がっていたり、1986年に発生した伊豆大島の三原山のように真っ赤な溶岩が流れたりと、動的な激しいイメージが思い浮かびますが、雲仙普賢岳はそれらとはまったく違った様相でした。溶岩ドームと呼ばれる火山岩の塊が静かに大きくなるだけで、どちらかというと地味で大人しい印象でした。それは普賢岳の溶岩が高い粘性を持っているからで、火口まで到達してもサラサラと流れ出すことはなく、空気に冷やされて表面から固まってしまいます。隙間から少しずつ押し出された結果でき上がったのがあの巨大な溶岩ドームだったのです。
その溶岩ドームの恐ろしさを思い知らされたのが、1991年6月3日に発生した大火砕流でした。素人目には、溶岩ドームは巨大な岩の塊にしか見えませんが、その内側では溶岩が地下から供給され続けており、一皮むけばその中身は灼熱の溶岩そのものだったのです。ドーム崩落と聞くと単なる岩雪崩のように思いますが、大量の溶岩が同時に落下したことで、それとはまったく性格の異なる火砕流となったのです。崩れた溶岩は山の斜面を転がる間に地面や岩などに激しくぶつかり、はぜて高温の火山ガスと大量の火山灰を発生させました。それらが数秒の間に連鎖的に起こり、大量の火山灰と400℃を越える熱風の塊が高速で移動する火砕流となったのです。発生当時、報道関係者とそれをサポートしていた地元の方々がいたのは、「定点」と呼ばれる溶岩ドームから約3.7km離れた高台でした。火砕流はそれまでに何度か発生しており、研究者からはその危険が再三伝えられていましたが、報道合戦の心理も働き、真の危険を理解するには至らなかったのでしょう。岩雪崩や土石流からは安全と思われた高台を、高温で地表との摩擦もほぼないに等しい熱風(火砕サージ)は、谷を駆け上がり「定点」を飲み込んでしまったのです。この時の火砕流により44名の方が亡くなっています。
その後も火砕流は頻発し、1995年の活動終息宣言までの間に、地震計によるカウントでは約9000回の発生が確認されています。またその間に地上に噴出した溶岩の総量は約2億㎥と言われており、東京ドームの容積に換算すると約161個分に相当します。結果として普賢岳の一部であった溶岩ドームは成長を続け、ついには雲仙火山群の主峰となったのです。
「定点」付近は今も許可なしでは立ち入ることができませんが、その下流側にある吉祥白天橋から見上げても、平成新山の溶岩ドームは近く感じられ、聳え立つ偉容さに圧倒されます。でもそれは私たちが、すでに火砕流の怖さを嫌というほど知らしめられたからだと思います。
島原大変 肥後迷惑
「島原大変 肥後迷惑」という言葉をご存じでしょうか? 島原の乱にまつわるいざこざか何かと思われるかもしれませんが、これはれっきとした災害の名称です。今でいう「阪神・淡路大震災」「東日本大震災」と同じです。平成新山の約4km東側、垂木台地を鞍部にして隣接するのが眉山(まゆやま)ですが、1792年5月21日、この東斜面が山頂から大崩壊を起こして有明海に流れ込みました。さらにそれによって発生した津波により対岸の熊本(肥後国)に多大な被害が出たのです。この一連の災害を「島原大変 肥後迷惑」と呼んでいます。
山体崩落の直前まで普賢岳は激しく噴火しており(平成の噴火のひとつ前の噴火にあたります)、それに伴う直下型地震も多数発生していました。また崩落前には眉山の地下付近で震度6の地震があったとの記録もあります。いずれにしても普賢岳の噴火が契機となり、それに伴う群発地震が複合的に重なったことが大崩落の原因に間違いありません。実は平成の普賢岳噴火の際も、火砕流に対する不安と並んで、地元の人々の間ではこの眉山の再崩落がかなり不安視されていたのです。
火山の内部は流れた溶岩流と不安定な火山灰が交互に積み重なってできています。またマグマの熱や地震の影響を受け続けて、どっしりして見えていても実際はとても脆弱です。火山が崩れる話は古来からよくあることで、江戸時代以降でも、1858年に発生した立山連峰の鳶山崩れ、1888年の磐梯山の崩壊、1984年の長野県西部地震による御嶽山の崩壊、2008年の宮城内陸地震による栗駒山の崩壊などがあります。火山の危険は噴火だけではなく、山体崩壊もあることをもっと認識すべきと警鐘を鳴らす研究者もいます。富士山は、東海・東南海地震に連動する形での噴火が懸念されていますが、標高が高い分、もし山体崩壊を起こした場合の被害は甚大で、それに対する監視と準備も怠れません。
雲仙温泉
「雲仙」とは、なんとも響きの心地よい地名だなあと思います。字を見ているだけで旅に対する欲をかき立てられます。地名の言われについては、もともと温泉を「うんぜん」と読んでいた時代があり、そこから「雲仙」の字があてられたようです。
雲仙温泉は、間違いなく島原半島の観光のハイライトです。その開湯の歴史は古く、701年、飛鳥から奈良時代にかけて活動した仏教僧・行基により開かれたという伝承があります。海岸線の市街地からは、どのルートから上がっても幾重ものヘアピンカーブを上がることとなり、深くなる山の気配に不安になりはじめた頃に、忽然と大型の温泉ホテルが立ち並ぶ雲仙の温泉街に到着します。明治以降は、標高の高さから外国人を中心に「避暑地」として人気を集めました。
雲仙温泉での最大の観光イベントは入浴ですが、「雲仙地獄」を巡る散策もおすすめです。硫黄臭や噴気の音、地熱など五感で大地を感じてみましょう。開湯が古いので、その当時は地獄だった場所が今は活動が停止したという、という場所があります。原生沼や旧八幡地獄がそれで、時間を経るに従って活動域が東に移動しているようです。
雲仙地溝帯
島原半島はユネスコの「世界ジオパーク」に登録されていますが、それは世界ではじめて火砕流の全貌が記録・調査されたことが評価されてのことだろうと想像します。でも個人的にはそれよりこの「雲仙地溝帯」にそそられます。ただ地面の中のことなので、写真に写らないのが難点です。写真家としてはまったくお手上げのテーマです。知り合いの火山学者の先生は、地学の本当のおもしろさは地表に現れていることより、地下にあると教えて下さいました。
地溝帯とはその字のごとく、地中深くにまで達する溝状の陥没地形のことです。日本列島では、西日本と東日本を分けるとされる「フォッサマグナ(静岡糸魚川構造線)」が有名です。島原半島の中央部には東西方向に延びる「雲仙地溝帯」と呼ばれる溝状の巨大な窪地があります。ただしこれは地質的に見た場合で、我々の目にはその溝を埋めるように雲仙火山群が乗っているので、陥没地形を認識することはありません。むしろ半島一番の高まりに見えてしまいます。
溝状の窪地ができる原因は、島原半島の北と南で地殻を引っ張る力の大きさが異なるからです。ちょうど柔らかいうどん生地を引っ張ると真ん中が延びで薄くなりますが、そのような状態にあると思って下さい。硬い岩盤でできている地殻が引っ張られると、その中央当たりにたくさんのひび割れ(断層)が生じ、それぞれが支えられなくなると地下にストンっと落ちていきます。これが地溝帯ができるメカニズムです。本来ならそこに海水が侵入し海になるのですが、島原半島の場合は、その溝の底の割れ目を伝ってマグマが上昇し、火山活動がはじまってしまったのです。これが普賢岳をはじめとする雲仙火山群です。元々あった大地の土台はどんどん沈降しますが、湧き出したマグマや溶岩が地溝帯を埋めるだけではなく、さらにその上に聳え立つ火山を作ってしまったのです。いつか雲仙火山へのマグマの供給が止まるか、火山活動より地溝の沈降速度が大きくなると、島原半島は真ん中から二つに割れてしまうことになります。
しかし地溝帯は島原半島だけではなく、実は九州全体も同じように南北からの力によって引っ張られており、中央部に大きな地溝帯が存在しています。これを「別府島原地溝帯」と呼んでより、その西端にあたるのが「雲仙地溝帯」なのです。別府島原地溝帯でも阿蘇山や九重山などが噴火活動をおこなったことで溝を埋めたために、雲仙と同じく明確な地溝の地形を示してはいません。でもやはりこのまま南北の引っ張りが継続されるならいずれ九州はふたつに割れるとみられています。日本列島全体を見渡すと太平洋プレートとフィリピン海プレートに押されているのですが、九州から琉球列島の北側にある沖縄トラフにかけては、その反対に大地が引き裂かれる動きが見られます。その理由についてはここでは割愛しますが、つくづく日本列島というのは、多種多様な大地の動きが集中するエリアだということを思い知らされます。
島原半島のジオサイト巡り
ジオサイトとは、ジオパークの視点でピックアップされた見所です。歴史や産業的なことも含まれますが、その主なものは地形・地質にまつわるポイントです。正直、普賢岳と平成新山、雲仙地溝帯に比べると「付け足し」感は否めませんが、島原半島を成り立ちから考えるのであれば見ておく価値はあると思います。半島巡りのポイントとして利用するのもよいでしょう。実際に車で海岸線を走るだけでもとても気持ちいいです。
●龍石海岸の露頭 長崎県南島原市
海水に浸かっている土台となる岩石は、約50万年より前に浅海で堆積した砂岩泥岩です。その上に見える黄土色の岩石(崖の最下層)は、初期の雲仙火山が噴火した際に溢れ出た火砕流による凝灰岩です。層の厚さ、堆積の様相から大型で活発な火山の出現が分かるそうです。
●早崎海岸の玄武岩露頭 長崎県南島原市
ここはかつての「島原島」が生れた場所と言われています。約430万年前、海底に玄武岩質の溶岩があふれ出たことがはじまりでした。アクセスは早崎港か、その脇にあるアコウ群落を目指すとよいでしょう。アコウの生命感あふれる姿も見応えがあります。
●両子岩 長崎県南島原市
地質的に云々というより、モニュメントとして楽しめはよいと思います。海岸を走る道路からは少し距離があり、望遠レンズを使っています。干潮時には近くまで寄れるそうです。
旅のスケッチ
平成新山と天の川。県道58号線・礫石原町付近の路肩にて撮影。地図を見ながら南に平成新山が見える地点を探して撮影しました。暑かったけど、快晴に恵まれ星空が印象的な3日間でした。
取材日:2021年8月27日~29日