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下の写真は、蝶ヶ岳から望む槍・穂高連峰と星空です。ひときわ明るいのは木星で、前穂高岳に向かって沈んで行きます。月はすでに西の空に消えて新月の状態ですが、微光に強いデジタルカメラは、山の周辺の街明かりを拾って雪を抱いた峰々を写し出しています。
蝶ヶ岳から見るパノラマ風景には、槍・穂高連峰の誕生のドラマを読み取るすべてが含まれており、造山の様子を空想する場所としても格好の展望台です。
5月の上高地へ
5月の連休に合わせて冬期休業中だったホテルが営業を再開し、交通機関が動き始めると、上高地は約半年間の観光シーズンの幕開けを迎えます。その頃、桜前線はすでに東北から北海道付近まで北上していますが、標高1500mの上高地にはまだその気配はありません。見上げる穂高の山々もまだ厳冬さながらに雪が残り、雪山登山の技術を持った者だけが立入りを許される世界です。
その中で蝶ヶ岳は、危険な岩場の登高がなく、基本的な雪上歩行技術があって天候にさえ恵まれれば、雪山初級者でも登れる山です。今回は約6万年前の氷河期の槍・穂高の姿をイメージしてみたく、残雪期の蝶ヶ岳に登ることにしました。
上高地から梓川沿いを約11km歩き、横尾山荘で1泊して翌日に蝶ヶ岳に登ります。
蝶ヶ岳の稜線へ
横尾山荘から蝶ヶ岳の稜線までは、標高差で約1000m、夏山の登山地図に記載された標準コースタイムで約3時間半の所要です。残雪の量や雪の状態はその年々で変化します。ある年はまったくアイゼンを必要としないまま山頂まで登れましたが、今回は残雪量も多く、少し前に降った雨のせいで雪がカチカチに凍っていました。樹林帯とは言え、そのような斜面で滑落すると立木に体を打ちつけることになり、大怪我をする可能性もあります。アイゼンとピッケル、もしくはストックは必携です。
氷河の記憶
私が山で写真を撮っていた20年前頃までは、「日本の山には氷河は存在しない」と言われていました。日本の平均気温や緯度、山の標高の低さなどから、それが当たり前と皆が思っていましたが、2012年に剱岳の「三ノ窓雪渓」と「小窓雪渓」、立山の「御前沢雪渓」が氷河の条件を満たしていると発表がありました。GPSを用いて観測した結果、雪渓の氷が谷を流れ下っていることが確認されたのです。驚きと喜びの半面、当時「穂高びいき」だった私としては、ライバルである剱岳に氷河があることが少し妬ましく感じました。
槍・穂高連峰に氷河が流れていたのは約6万年前と約2万年前の2度で、氷河としては6万年前の方が規模が大きく、穂高岳では、稜線付近から本谷を下り横尾付近まで流れていたことが確認されています。2万年前の氷河はそれよりも小さく、涸沢カールを氷で埋める程度でした。現在涸沢ヒュッテが建っているモレーンは、その時の氷河が運んだ堆積物からなっています。
蝶ヶ岳からは槍・穂高の東面に残る氷河の痕跡が一望できます。先ほどの「モレーン」をはじめ、氷が削った岩峰「氷食尖塔」の槍ケ岳、スプーンで山体をすくったような「カール地形」、鎌状に削られた岩尾根「アレート」、谷底を氷河が丸く削ってできた「U字谷」などがそうです。特に槍沢は谷全体を正面から見ることができるので、U字に削られた谷の断面や三日月状に残っているモレーンなどがよくわかります。
穂高を作った岩
約176万年前、この地で火山の大噴火がおこり、同時にマグマだまりの上の地面が陥没し巨大なカルデラができました。カルデラ内にたまった火山灰は自らの高熱で再び溶けて固まり、後に槍・穂高の山体となる硬質な岩(溶結凝灰岩)となります。常念山脈や裏銀座の山々と槍・穂高の姿が明らかに違うのは、岩の種類が違うからです。カルデラ内にたまった溶結凝灰岩の厚さは1500mにも達し、その後の隆起運動により一気に標高3000mまで押し上げられて険しい岩峰群となりました。
溶結凝灰岩の形成と隆起、その後の氷河による研磨、この一連の流れの何かひとつが欠けても槍・穂高連峰は今とはまったく違った姿になっていたことでしょう。
※登山ガイドについては、あえて詳細に書かなかったので、必ず登山専門のコースガイドを確認して下さい。
取材日:2017年4月29日~5月2日
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